Interview

日本の女子として言いたいことを日本の女子として
言えるところで発言したい。
だから、独立したんです。
Aiko Nakagawa
ストリートアートシーンで絶大な人気を得るアート集団FAILEのメンバーとして国際的に活躍してきたアーティスト、アイコ・ナカガワ。07年にFAILEから独立し、現在はアーティスト / デザイナー/ キュレイターとしてグローバルかつボーダレスに活動を展開する彼女のルーツに迫る。
Text:高橋洋介
グラフィティ・スタイルの核
―ニューヨークでグラフィティをするようになったきっかけを聞かせてください。

最初期のグラフィティ正直に言えば、グラフィティアートをやるためにニューヨークに来たわけではなかったんです。東京の大学でグラフィックや映画制作を専攻しているうちに、いろいろなことに興味が出てきて、自分の眼で世界をもっと見たくなり、渡米しました。初めは言葉もしゃべれなくて、友達もあまりいませんでしたが、クラブやライブハウスなど音楽のある場所に行き、イベントをやるうちに仲間ができました。90年代後半ごろ、グラフィティはアンダーグラウンドで、いまのように商業的な流行とはかけ離れていたけれど、クラブの仲間がストリートで描いていた。そこに参加するようになったのが、グラフィティを始めたきっかけです。グラフィティが国際的なムーブメントとして認識される前に、自然とその中に迷い込んだ感じでした。
当時は街もよくわからないし、どうやったらきっかけがつかめるのかもよくわからなかった。道も自分のものになってなかったけど、街に作品を残すことで、「あ、この道知ってる」とか「あの壁にまた行ってみよう!」という風になった。要するにグラフィティは自分と街がひとつになるきっかけでもあったんです。スタジオを持ってないし、ギャラリーをノックしてもまだ見せるものもない状態だけど、楽しいから一晩中、皆と一緒に作品を街にばらまいていた。いま思えば私の芯には、知らない国でも「アートがしたいの!」っていうパワーと根拠がしっかりあったんです。
大学院を卒業して、FAILEのメンバーとして本格的に活動するようになってから、ヨーロッパの国々を旅して、仲間を作っては、2、3週間ごとに違う国に移っていく、毎日がそんな感じでした。そうしているうちに、バンクシーやシェパード・フェリーという、当時の社会やアートワールドにはうまく受け入れられていなかったけれど、本当にパワフルで才能がある人たちと知り合いました。ものすごく早い時期に彼らと出会い、一緒に成長できたのが本当にうれしい。でも、精神的にも肉体的にも大変なこともあったし、爆発的に売れるまでには沢山の努力もあり、意外と地道な毎日でもありました。

左:制作中のAiko Nakagawa
右:Serious Romance
―大学を出たばかりの女の子が世界中を回るなんて……。
今でも世界中を廻っていますが、当時の日々は非常に素晴らしい経験でした。若さ爆発、怖いもの知らずのバックパッカー/アーティストのような時代が続き、旅をしながらそれぞれの街で、「ストリートギャラリー」と称して作品を描いたり貼ったりしていました。ネバダ砂漠の古いガスステーション、アムステルダムの運河のトンネル、ロンドンの橋の下、東ベルリンの壁。そうやって毎日続けていく中で、テクニックはだんだん発達し、アイデアもふくらみ、自分たちのフォーマットが完成していきました。
2002年~04年の間は、商業的なプロジェクトやステータスを追求せず、マイペースにやっていました。スペインのマヨルカ島というリゾート地に行ったとき、歴史的建造物の風車小屋の中でアートショーをやっていいと言われて、そこに2週間ぐらい滞在したんです。毎日資材現場に行って、木を運んで、その木に描いたり貼ったりして。もちろんアートショーが頻繁に開かれるような町ではないので、そうしていると島の人たちが面白がって食べ物持ってきてくれたり、家に招待してくれる。サポートしてくれたお礼に、島の人たちに作品を大安売りして持って帰ってもらったり。そういう、とても楽しくてアドベンチャラスな日々がたくさんありました。
インターナショナルスクールとしてのストリートアート
ダン・ウィッツというストリートアーティストが小さなハミングバードを凄いリアルに描いて、街中に貼ってるんです。街を歩いて彼の鳥を何度も見かけると、私にとってはもう、鳥の人! みたいになりますよね。同じように、バンクシーはネズミの人みたいに思えてくる。そうやって、ストリートで生まれたキャラクターや作品でつながりを広げ、国籍や人種の関係ないコミュニティができていったんです。家出っていうか「国出」しちゃった子がうまい具合に新しいコミュニティを見つけて、そこで新しい言語を使って、いろんな国の人たちと分け隔てなく生きているのはすごいミラクルだなって思います。その言語は、ある不特定多数の人たちが持っている共通の言語で、日本語でもないし英語でもない。
―グラフィティ語みたいな新しい言語ということですね。しかも国際的な共同体を作る共通言語。
そう。本当に国際的です。そういう風に繋がっていく中で、はじめは「どうしよう……」と思っていた言葉が補われていったんです。作家とそれを取り巻く人々のコミュニケーションって、作品のスタイルやうまい下手はあまり関係なく、何処の国から来ようと、若者も年配の方も、男子も女子も同じ言語で通じ合うことができる。確かに大学院にも行ったし、ちゃんと本も読んだ。けれども、グラフィティやストリートアートのコミュニティが私のもうひとつの学校になってくれて、家族って呼べるくらいの友達ができた。私はそこでテクニックや表現方法やメッセージを磨き上げてきた
独立したアーティストとして
―モチーフにウサギとか蝶とかドクロをよく選ばれていますね。
FAILEでの私はウィアード担当だったようです。つまり、不思議ちゃん役(笑)。でも、私はただの不思議ちゃんではなくて、日本を背負っている自負がある。だから、自分のやりたいことが広がっていって、ひとりでしかできないことにチャレンジしたり、興味を持つのは当たり前でしょう。日本の女子として言いたいことを日本の女子として言えるところで言いたかったりする。だから独立したんです。もちろん完全に一人では何も進まない、周囲のサポートには非常に感謝していますし、時に無理ばかり言ってご迷惑もおかけしています。
―チェルシーでの個展開催までの経緯を聞かせてください。
昨年、フィラデルフィアにあったLineage Galleryのオーナーのジョシュア・ライナーが、ニューヨークのチェルシーにギャラリーをオープンしたんです。「2009年からはアーティストひとりひとりにフォ-カスを置いた展覧会がしたい」と言って、私を選んでくれたんです。ニューヨークADCに殿堂入りしている横尾さんでも、いまだに『正直なところニューヨークでの絵画の個展はまだ時期尚早』なんておっしゃってますけど、これは新しいステージでのチャレンジと考えて引き受けました。

Spraycan Girls
私の制作活動は、訪れた街の人たちとコミュニケ―ションをはかりながらストリートアートを描くところから、ギャラリーで表現し、皆さんに見に来てもらうところに焦点が移ってきています。でも街で拾って来た窓やサインに描いたり、ストリートとの接触はまだまだ続きそうです。古い物やジャンクをモチーフに新しい美や価値観を与えてあげるような作業はこれからも続けていきたいです。

installation at Joshua Liner Gallery, 2009独特なアプローチではあるけれど、パブリックスペースとの関わり合いは常に大きい。2006年にポートランドのワイデン+ケネディ本社の25周年記念で作品を依頼されたときに巨大な壁画を描かせていただいたのは、アートを使って社会にいいことができれば、と思ったからです。一日中、道を歩いた経験がたくさんあるから、ハンディを持った人たちが日常的にパブリックスペースで困難を感じながら生きていることが少しはわかるので、この3年間ネクスタイドのお手伝いもしています。私は偉い人でもなんでもないけど、こうして自分のアートを使って多くの人にものを言える立場になったので、デパートに盲導犬を入れようよ、と言うぐらいだったら協力できる。
時代を超える共感、国境をつなぐ美学
―ストリートアートのステッカーっておしゃれな名刺みたいなところがあって面白いですよね。
ステッカーといえば、最近、日本の千社札がとても気になっています。私の中では、グラフィティと千社札が相重なり、深いシンパシーを感じるんです。千社札は、天皇が神社にお参りに行ったときに自分の名前と詩を高価な紙に書いて奉納した(☆1)ことが始まりらしく、本当に信心深い人が自分のスピリットを神社に置くっていう意味を持っていた。貼られた千社札が残っている間は自分の魂がお寺の中で守られるっていうものだったんです。でもその後、坂東三十三箇所巡りを鎌倉幕府が寺社と一緒になって始めた。要するに、宗教と政治が一緒になって民を治めようとしていたわけです(☆2)。だから、お寺が「三十三箇所巡りして神社に千社札を貼りまくれば、いいこと起こる」と宣伝して、民は「イェィ♪イェイ♪」みたいな感じで貼りまくっていた(笑)。それが江戸時代に庶民の遊びにまで発展し、爆発的なブームになったそうです。


Bunny Stickers 浮世絵と千社札の木版技術は一緒ですから、仲間同士で見せ合うときの千社札は色鮮やかで美しい多色摺りの札だった。資料を見ると継ぎ竿(長い竿の先に刷毛をつけたもの)で千社札を貼っている。私たちもハケで貼ったり、ブラシを棒にくっつけて貼るから、「昔の人がこんなことをもうやってたの?!」という感じですよね。しかも、納札会では品評したり、交換したりしていた。それぞれがウサギや蝶などの標(しるし)を持っていて、連と呼ばれる千社札愛好団体に所属していたそうです。直描きは当時邪道とみなされていて、絶対に札を作って貼っていた。貿易をしに来た外国人もやっていて、お札を巡って惚れたはれたの騒ぎもあったらしい。換言すれば、グラフィティみたいに自分のサインがあって、クルーがあって、シールの見せ合いや交換があって、オフ会があって、貼る技術もそっくりで、ストイックなルールがあった。さらに精神的なものでもグラフィティとかぶっていた。江戸時代の本には既に「千社札は自分の名前を貼るのが楽しい。戻ってきたときに名前が残っているとさらに面白い」と書かれている。それこそ、先ほどお話しした、私の目線のグラフィティの楽しみです。公共物を壊そうぜじゃなくて、自分を街と一体化させたい、そこに残したいっていう気持ちを江戸時代の人も持っていたんです。

Spraycan Girl Sticker―いろいろなものがつながり、江戸時代の日本と現代のアメリカを結ぶテーマに出会うなんて。この話はアイコさんの表現者としての本質を衝いていますね。
ニューヨークを拠点にする日本人のストリートアーティストにはぴったりのテーマに大興奮です。西洋文化としてのグラフィティを学んだ私たちが、今度は逆に、日本文化としてのグラフィティを彼らに語れるんですもの。もっと深く学んで世界中の人々にも教えてあげたいと思います。
ご存じかもしれないけれど、アメリカの郵便局でもらえる宛名シールって、街の至るところに貼ってあるんです。ポスタルステッカーっというステッカーアートのジャンルで、千社札のようにひとつのフォーマットにスティックして、その狭い中で表現している。こういうのを見るとグラフィティの子たちがやってることは、江戸時代の千社札と一緒だって感じる。その美学に時代や国境を越えて本当に共感してしまいます。

☆1 995年に花山院入覚法皇(65代花山天皇)が、西国三十三箇所巡りを行った際に一ヶ所一首の和歌を詠じ、石摺りの札を納めたのを千社札の起源とする説がある。
☆2 坂東札所三十三箇所巡礼は、鎌倉幕府の成立を機に源頼朝が発願し、三代将軍源実朝によって制定されたと言われる。江戸時代に入り、徳川家康が「檀家制度」や「参勤交代」を導入したことによって、巡礼はさまざまな階層の日常生活の中で行われるようになった。檀家制度によって、すべての家が割り当てられた寺の檀家になり、参勤交代によって全国の街道が整備されるにつれて、巡礼の往来や物資の流通が盛んになり、庶民(寺社に納められた札の多くには苗字が記されているため、一般庶民とはいえ富裕な商人や地主など上層階級であったと考えられている)はお伊勢参りや西国三十三箇所巡り、四国八十八箇所巡りに出かけるようになったと言われる。
参考文献
『千社札』、野島寿三郎、ピエ・ブックス、2006.7.7、p.2
『千社札:粋のグラフィズム』、松本八郎、マリア書房、1989、p.198
Aiko Nakagawa アイコ・ナカガワ
アーティスト
東京生まれ、ニューヨーク在住。New School University大学院Media Studies(メディア学)修士課程修了。在学中、アートコレクティブ「Faile」を結成する。ストリートアートの先駆者として、アメリカ国内はもちろんヨーロッパ各都市で活発に活動し、世界的な人気を得る。デザイナーとして、アパレル事業とのコラボレーション、MTVのアニメーション制作など幅広い分野で活躍。クリエイティブディレクターとして、ユニバーサルファッションを啓蒙する「Nextide」 にも参加している。 07 年、Faileから脱退して独立し、ニューヨーク、パリ、ロンドン、ベルリン、東京などで展覧会を精力的に開催する。09年4-5月、NYチェルシーにて大規模な個展『AIKO: Love Monster』(Joshua Liner Gallery)を成功させる。6月、東京にてグループ展『TheNYConnectionExhibition』(ギャラリー・ターゲット)のキュレーションを担当する。11月にはローマ現代美術館で展覧会を行う予定。国境とジャンルの境界を越えて活躍している。
http://www.ladyaiko.com/