Interview

ライブっていうのは現地なんだよ。
頭で描いているのが地図。
地図がないと現地が楽しめない。
けれどいくら地図を集めても、現地には追い付かないんだ。

田中聡

いつまでもロックな心は忘れない。アメリカ滞在時から西部講堂時代まで、音楽を通して得てきたものとは? 京都という土地にどんな魅力が隠されているのか。知られざる過去からいまを暴く! 『Realkyoto』インタビューシリーズ第3弾。
(このインタビューは、昨年11月に行いました。それから約2か月たった1月10日、田中さんは急逝されました。心からご冥福をお祈りします 追悼コメント

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取材・文:川崎沙久良・岡本美和・大江和希
写真:大江和希

-田中さんが20歳のころは何をしていたんですか。

20歳のころに東京から関西に流れてきて京都に住んでいたんだ。神戸で神戸祭りやロックイン六甲などのコンサートを組織していて。でも神戸からしょっちゅう京都に来ていたね。関西のブルースの連中に憧れたり、ロックコンサートのプロデュースや、自分の詩の朗読をしたりして。やっぱり西部講堂がいちばん面白かったかな。
 その当時フランク・ザッパが、日本に来てコンサートをやったとき、日本でいちばん面白いのは西部講堂って言ったくらい。照明も舞台も何もかも全部手作りなの。生徒たちが自主管理をしていて、フリーなスペースだったし、手作りだからこそ面白いことができた。演劇の連中も、ブルースもロックもね。

-ご自分がステージに立って何かやったりはしなかったんですか。

西部講堂でやったのは、モジョワーキングなんかのバックコーラスぐらいだね(笑)。URCレコードにもなっているけど、神戸で月1回コンサートもしていたよ。詩の朗読ではまた新宿のロフトや四国の巡回ツアーもしたんだ。京都のオーラル派の若手詩人だったんだ。

-音楽をやりながら詩も書いていたんですよね。

うん。詩のほうがうまかったというか、朗読するのは面白かったね。

-お書きになった詩を音楽にすることはなかったんですか。

それもやってたよ。自分でもやったけど人へも提供してたし、作詞でプロになった連中もいる。プロの音楽作詞家になった森雪之丞なんかは当時の仲間だけど、東京時代、四人囃子の楽器を一緒に運びながら詩を書いていたんだ。

現地で生に触れる

-その後、アメリカに渡られたわけですが、そもそもなぜ海外に行こうと考えたんですか。

まず21歳か22歳くらいのときかな、ボブ・ディランの翻訳家で大学の先生だった片桐ユズルさんと中山容さんと『ほんやら洞の詩人たち』を晶文社から出版しようと話が持ち上がったの。で、1年くらいあれこれ作業をするわけよ。片桐さんや中山容さんたちと本を書くと、やっぱりアメリカの風景を知らない自分がいる。翻訳しても嘘になるじゃない。ボブ・ディランの詩なんて、なんか変だなあって思ってたら、ディラン自体の詩が変なんだよ。英語が変だから、英語ができる人が訳すと変な日本語になるわけよ。で、もし僕が訳すと、かっこよくなっちゃう。かっこいいきれいな詩は書けるんだけど、ボブ・ディランではなくなっちゃうんだよなあ。
 それにまあ気付いたというか、また少し真面目に勉強して大学にも出ようと思ってアメリカに行く決心をしたんだ。僕はニューヨークに住んでいたから、グランドマスター・フラッシュなんか毎日聞こえるんだよ、若い連中がみんなかっこつけて大きなラジカセを肩にかけて歩いてたり。
 あと、ゴスペルはすごかったな。映画やミュージカルで観るみたいに、本当に牧師さんが説教するわけよ。それがだんだんリズムを持ってきて。急にゴスペルのリズムに入っていくから、あれは教会じゃないって。エンターテインメントだって。下手なライブより全然いい。そういうテレビとかでしか観たことのなかったものを目の前で見れたことが大きかったな。

-やっぱり生で観るというのはいんでしょうか。最近は外に出なくてもなんでもできるし、生に触れる機会がどんどん減ってますよね。

生での体験っていうのはでかいと思う。京都に来たのもニューヨークの空気みたいなのを味わいたいからだし、やっぱり生はすごいもんがあるよね。
 ライブっていうのは現地なんだよ。頭で描いてるのが地図。地図がないと現地が楽しめない。けれどいくら地図を集めても、現地には追い付かないんだ。
 例えば京都で言ったら京大西部講堂がある。ボロフェスタとか大阪でもないし、東京でもない、京都という街の中でしかできないようなコンサート。そこにやっぱり魅力を感じるな。
 西部講堂のイベントなんかでも、音も悪いし、音響設備も古い、食べ物もろくなものがない。けどあの雰囲気が良いわけよ。寒いときの西部講堂って火を焚くんだ。好き勝手燃やしながら、ロックの音が外から聞こえてくる。
 あの空気感、雰囲気ってほかにないじゃない。音としてのロックだけじゃなく、あの雰囲気がロックなんだよ。木の焼けた匂いと、汚い落書きと、聞こえてくる音。僕たちの好きだったコンサートの匂いを、いまいちばん色濃く持ってるんじゃないかな。
気になるものなんだよロックってのは。何かいちばんわけのわからないもの。だから、きっちりスケジュール通りに進行するロックコンサートって嫌いなの。現実的に言ったらそういう側面は必要だし、それはわかるんだけど、どうなるのかわかんないのがロックの面白さって感じるんだよね。
 フジロックに行ったってさ、管理されたロックコンサートなんだよ。よくできたコンサートだとは思うけど、西部講堂のコンサートみたく管理されてなくて、アナーキーな危ない空気があるほうが好きだな。
 ネットとかメディアに行けば行くほど、生って大事になってくるんだよ。価値を持ってくる。生のコンサートの持つ魅力ってのがやっぱりあるんじゃないかな。

未来から選ばれた京都

-田中さんの感じる京都の魅力はほかにありますか。

京都ってね、人口密度がちょうどいいかなって思うんだ。東京ほど濃くはなく、田舎すぎない。田舎だとさびしいじゃない。ちょうどいい感じがするな、田舎と都会のミックス度とか。
 時間が流れるスピードが自分にとっていい感じなんだ。これからの豊かな街のモデルになるような。人気、伝統、文化とかそういうんじゃなくて、流れてる時間が僕にとっては魅力。未来のライフスタイルを先取りしてる部分が、京都にはあるんじゃないかな。
 いままでは成長することを良しとしてきたじゃない。でももういまの社会はそれを良しとはしてないんじゃないかな。昔とミックスするような、バランスの取り方が変わってきてるように思う。
 僕にとって京都は、きれいで美しいだけじゃなくって、カオスみたいなもんがあるんだよ。なんかわけわかんない、西部講堂みたいなドロドロっとした、カオスを含みこんだ、なおかつ適正な規模っていう、それが京都の街。未来から選ばれた街って気がするんだよね。それがなんか無意識に、いまのブームを支えたりしてるんじゃないかな。東京よりも世界に誇れるんじゃないかと思うんだ。

たなか・さとし

1953年9月兵庫県姫路市生まれ。米国・コロンビア大学教育大学院修士課程卒業。三井物産情報産業本部、衛星放送、ケーブルテレビなど通信放送に従事した後、2003年6月に株式会社エフエム京都の取締役に就任。代表取締役専務を務めた。70年代初頭から関西の音楽シーンに深く関わり、ビートニクの詩など、アメリカのカウンターカルチャー紹介に尽力。自身、詩人としても活動し、京都の音楽とアートを活性化させるため『ARTBEAT』『COOLBEAT』など数々のイベントを立ち上げた。若者の育成にも力を注ぎ、立ち上げたイベントで若手の活躍できる場を提供するなどプロデューサー的な役割も果たした。06年4月、京都造形芸術大学 芸術表現・アートプロデュース学科非常勤講師に就任。ロック、ブルース、フォークなどに魅せられ、80年代の大半をアメリカで過ごした経験から、ロックの本質を伝えるべく、学生に気持ちと愛情を注いだ。08年1月、心不全により急逝。

田中聡さんは1月10日に逝去されました。心よりご冥福をお祈りします