Interview

俳優は舞台の外で行われたことを
報告する代弁者だと思う。

松田正隆

現代において、俳優が役を演じるだけで演劇は成立しうるのか――。9月19-21日、Studio21にて『ディクテ』を上演する演出家に話を聞いた。

インタビュー:大江和希
写真:川崎沙久良

――松田さんは1997年に時空劇場を解散して以降、劇作を中心に活動されてきましたが、2003年にマレビトの会を設立されました。なぜ再び集団を作られたのでしょうか。

自分の集団を辞めてから劇作で来たのだけれど、アトリエ劇研の杉山準さんと「芝居を一緒に作ろう」という話になりました。アトリエ劇研も劇場として貸し館をやるだけでなく、創作に関わりたいというのもあったんでしょうね。そういうきっかけがあったのがひとつと、あと、やっぱり劇作というものから、演出というものに興味を持ちはじめ、舞台を作りたいと思いました。それまでは文学の延長線上で戯曲を書いて、カンパニーや演出家、劇場に渡していたんだけれど、集団を作って、演出家として舞台を作りたい、と。

もはや成立しない「あるある演劇」

僕は演技者が自然に日常の演技をできる時代ではなくなったな、という気がしています。今までの演劇は、舞台上で俳優がある人物になって、その人が狂っているとか欠損しているという役割を担うことで成立していたんだけれど、今は「そんな人いるいる」「こんなことあるよね」っていう「あるある」っていう演劇は成立しないんじゃないかな。テレビなりブログとか、誰もが「演じる」場があるでしょう。マレビトの会を作ったとき、日常の所作や機微を舞台上で平然とやられることに違和感を持ちはじめていたわけです。だから、「俳優は報告者である」と。俳優は(舞台の)外で行われたことを報告する者で、観客にプレゼンテーションする。代弁者になって、ある出来事を観客に報告するんだ、と思いました。そして、いろんなものになりかわって、どんどん役割を変容させていく。

物語に憑依していく

――今年5月に上演された『血の婚礼』(作:ガルシア・ロルカ)も、同じ考えに基づいて作られたのですか。

それまでの前衛的な演劇だと、何かに見立てるというか、皆が病院の病人だとかにして、それがだんだん変わっていくという「設定」をするのだけれど、『血の婚礼』のときは登場人物の初期設定を「若者たち」という曖昧なものにして、若者たちが冒頭のシーンで衣裳に着替える中で、ある役割に見えてくるようにしたかった。物語の世界に憑依していくように。

――俳優にはあまり注文しないのですか。


撮影:相模友士郎
俳優には「一所懸命になりきってしゃべらないでくれ」と。しゃべっている内に乗ってきたらそれに乗っていいんじゃないのって。役を騙っていく内にエンジンが入る、抜けていくみたいに、俳優の側が判断したらいいんじゃないか、と。注文はあんまりしないで、俳優とコミュニケーションを取りながら、大きく演出する。一方的に指示するのなら、演出家が全部やればいいんだから。
うまく役を情熱的に自分に密着させて、「どっから見ても花嫁だよね」っていうのが新劇だったり、それまでの演劇だったと思うんですが。俳優の身体が、劇の役割に盗まれる瞬間を見せなくてはならないと思うんです。花嫁役は、本当の花嫁ではないわけでしょう。でも俳優がいるのは、ロルカの『血の婚礼』の空間だから、花嫁の役割をやろうとしたり、自分に戻ったりする……という「行きつ戻りつ」が演劇って面白いなと思います。

――『ガラスの仮面』の北島マヤみたいな(笑)。

もうちょっと引いてみると、『ガラスの仮面』は役者のバックステージも見せるでしょう。北島マヤが役になる様を見て面白いわけでしょ。ある意味で『ガラスの仮面』的なことをやろうとしているわけですよ。僕の芝居もそれがわかるように、本番の中で、俳優がオンになったりオフになったりすることができないかな、と思う。俳優が現れて、何かに変容していく様を見せたい。

母語は自明のものではない

――9月にテレサ・ハッキョン・チャの『ディクテ』をテキストとして構成・演出されますが。

ずっとやりたかったんですけどね。『ディクテ』は戯曲があって、こういう風なストーリーです、とやり方が決まっているものではないし、発話しなくて、触発されて何かをやるという場合もあるし。あの中に書かれている「言語の複数性」というか、私たちの母語が自明のものではないということ、祖国と母語、国籍と言語……ナショナリティの問題を突きつけられた作品だったんですよ。その辺を経ないと演劇ができないかな、と思って。自分の中にある問題意識がはっきりするきっかけを与えてくれたのが『ディクテ』であり、池内靖子さん(翻訳者)によって、作品を巡る様々な人々の言説に出会うことでした。私たちが単一の言葉をしゃべっているわけではない、と楔を打ち付けられた感じかな。自分たちは同質な世界の中で生きていると常に錯覚してしまうんだけれど、そうではない。自分自身の中にも違う自分なり、そういうものがあるはずだ、と。

――今いる集団の外へ繋がっている自分がいる、ということでしょうか。

普通に生きているとなかなかわからないんだけど。「同じ日本人ですね」という言い方をするのは、言語なり文化をいつの間にか身に着けさせられているってことでしょう。それは実はフィクションで、虚構の中に生きているんじゃないかという感じがありました。

――『ディクテ』ではいろいろなものが引用され、語り手が変化していきますね。

『ディクテ』は自叙伝なんだけど、「私」という主体で語られていないで、語っていく内に転移していく。ジャンヌ・ダルクだったり、母親だったり、テレーズ・マルタンだったり、自分以外のものが引用されていく。語り手がどんどん変容されていくのが面白かったです。

――現在の松田さんの活動と『ディクテ』は、近いものに感じます。

自分のやろうとしていることと、近いんだけど遠い気がします。作者が女性であるということもあるし、書かれていることに安易に共感できる、近いとは言えない。けれども遠いからといって遠ざけることでもないから、その距離感の中で語りに参加することによって、自分の主体が脅かされるような体験をしたいなというのがあるかもしれません。

まつだ・まさたか

1962年生まれ。長崎県出身。立命館大学卒業。90年より時空劇場にて作・演出を行う。93年『坂の上の家』にて第1回OMS戯曲賞大賞受賞。94年『海と日傘』で第40回岸田国士戯曲賞を受賞する。97年の劇団解散後、劇作家として多くの作品を執筆。97年に上演された平田オリザ演出の『月の岬』は第5回読売演劇大賞作品賞を受賞した。99年『夏の砂の上』が第50回読売文学賞戯曲・シナリオ賞を受賞。2003年にマレビトの会を設立、翌04年に旗揚げ公演『島式振動器官』を作・演出する。07年に上演した『クリプトグラフ』は、カイロ・北京・上海にも巡回。著書に『海と日傘』(白水社)、『月の岬』(ENBU研究所)、『雲母坂/夏の砂の上』(深夜叢書社)がある。戯曲以外では03年、映画『美しい夏キリシマ』(監督・黒木和雄)の脚本を担当。06年には代表作のひとつ『紙屋悦子の青春』が映画化され、黒木監督の遺作となった。京都造形芸術大学舞台芸術学科・客員教授。

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